コンテンツの海を漂うのBlog(続)

徒然コンテンツの感想Blog。嗜好は偏っておりますのでご注意ください(BLが多い)。

「さらざんまい」9〜11話感想〜自分の欲望フィールドから飛びだせ〜

さらざんまいについては、また総括としての感想を書きたい。

ちょっと自分の中でまだ消化しきれていない・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとまずレオマブを中心に9〜11話についての感想をつらつらと。

 

レオマブは、予想はしていたし、そう行った描写が散々されていたのでまあそうかなとは思っていました。

思っていましたよ。しかし、ここまでガチだとは・・・!!

 

素晴らしいです。

 

アニメで、ちゃんとふざけたりせずに正面から男性2人のすれ違い愛憎劇を真剣に描くのは珍しくてイリオモテヤマネコのように貴重だと思います。

 

作品に関わったみな皆様ありがとう・・・!!

 

 

 

監督がBLを描きたいわけではなくて、これは昨今のBLの盛り上がりに乗じてBLの皮を被って何かもっと伝えたいことが裏に隠れているんだろうな、と言うのは分かるんですが。

それでもちゃんとエンタメとして面白いからいち視聴者としてはそれに乗っかって楽しんじゃおうと

 

それにレオマブを例えば男女でやったら、なんか典型的で陳腐な感じになっていたと思うんですよね。

男女という組み合わせが悪いと言うよりも、男女の話というのは古今東西散々描かれてきたから、何の目新しさもインパクトもない。

 

ちゃんとエンタメとして作ってくれていますが、しかしメタファーがてんこ盛りで概念的で中々難しいですね。本来はある程度観る人を選ぶ作品なんでしょうね。

 

 

 

レオマブに関しては、何だか踊ってカワウソイヤアしてる美形警官2人がいると思ったら、そのうちの1人マブは機械の心臓を持った人形!?と思ったら、レオは平気で人を撃つなど突然悪役み増してきて、2人はどうやらデキていた感出してきたと思ったらNTRで揉めてカワウソは概念だった・・・!????

 

カオス極まりないです。面白いんですが、もうね、ちょっと尺足りないよね・・・

 

 

 

レオマブについてはカッパ側の人間(カッパ?)ではないかという予想は皆さんもしていたかと思いますが、カッパでしたね。

 

人間が尻子玉を取られるとカッパになる、ということだったので、カッパ≒人間ですけれど。元々は人間で、昔の人の魂で、あの世とこの世の間に留まり続けているような存在なのかもしれません。

 

ツイッタでの「ア」のマークからの呼び出しはカッパ王国からの呼び出しだったということで良いのでしょうかね。 

 

結局時系列など謎が残るままですが、もはや時系列を観念しようとすること自体あまり意味がないのかも(思考停止)。

 

 

 

カワウソとは概念(人間の欲望の総体の概念みたいなもの)であり、各人の心の中の欲望を具現化したものとして現れたりする。自分の欲望を具現化したものということで各人に都合の良い世界、閉じられた各人の妄想の世界みたいなものかもしれません。

 

すると、カッパとカワウソの戦いというのは、結局欲望を生きる糧としながら時には(自分の)欲望に呑まれてしまう人間の人生・精神そのものなのかもしれないですね。

 

人と繋がりたい(これも欲望)と思いながらも、自分の中の欲望(自分の望む世界)に捉われて、現実のつながりを失ってしまう。

 

 

 

マブとエロメンテをしていたカワウソはレオの欲望でもあった。

 

カワウソレオもレオ自身であり、レオの欲望=マブを支配したい(性的行為をしたい?あるいは性的行為によって支配したい?)という欲望。

 

これはマブの欲望でもあったのかもしれないですね。

 

実際にマブは「今の私にはあなたが必要だ」と言っています。

 

支配されたいというよりも、愛情を確認したい、みたいなニュアンスかと思いますが。マブがレオのことをちゃんと好き(愛してる)のは明らかにされているので、好きな人の愛情を確認したいというのはごく自然なことですね。

 

定期的にメンテナンスに行く(=定期的にカワウソレオと性行為?する)ことについて、それがないとマブは生きられない、生命線との発言がありましたが、自分から愛情を表現できない状態で、カワウソレオから求められるという行為がないと生きていけないということなのかもしれない。

 

 

 

マブは、(死んだけどそれでも、)レオのそばにいたいという自分の欲望のために

つながり(相手の期待する言葉をあげること、愛を示すこと)を手放した、あきらめた。

 

でもレオに拒絶され続けて、最後には、愛を示したい、つながりが欲しいという欲望が上回ってしまった。

 

欲望と判定されたマブですが、春河との違いは何でしょうかね?

 

春河も一稀にそばにして欲しいという思いはあったんですよね。

 

でも、春河は一稀からの気持ち(の表現)はそんなに強く求めていなかったのかもしれないですね。冷たくされても、愛情を示してくれなくても、ただ側にいたいという純粋な気持ち。

 

そもそもこの辺りになると愛と欲望というのは頑然と区別できるものではない表裏一体のようなものになってくるのでしょうが。

 

ここは、家族における兄弟のつながりと恋愛感情の絡んだ恋人?2人のつながりとはどうしても違いますね。

 

一稀が「つながりを諦めない!」と言うシーンが何度か(2回くらい?)出てきますが、こうやって障害がありながらも、現実的には難しそうでも、「諦めない」と強く言えるのは子供の持つ強さだなって思います。

 

 

 

レオの、相手を支配したい欲望は恋愛において多くの人が抱く欲望でしょうね。特に男性が抱きやすい欲望なのかもしれません。

 

レオについては、確か、イクニ監督が自分が示した分と同じだけの愛情が返ってくるべきだと思っているとか、相手の変化を認められない、というような言及をインタビューでしていました。

 

自分の欲しい反応を返して欲しい、自分の示す愛と同じものを示して欲しい、自分の望む相手でいて欲しい、こういった欲望は恋愛すれば誰もが多少なりとも抱く欲望ではないでしょうか。

 

ただ、相手は人間であって他人であるので必ずしも自分の思い通りにならないし、変化していくものです。だから、そこですれ違いが起こる。

 

恋愛が破綻するときは大抵レオのような欲望に支配されたことが原因と言っても過言ではないでしょう・・・。

 

これは、前述した自分の欲望、自分の中の都合の良い欲望世界で完結していて、「つながれない者」ですよね。

 

これまでカパゾンビにされてきた男たちは皆自分の欲望の世界の中に生きていたと言っていいでしょうね。それは現実とは違うから、欲望の世界に生きるあまり、現実のつながりを諦めて、失ってしまっている。皮肉なことにレオも同じだったわけですね。

 

レオマブは完全に悲劇ですから。最後は救済されたように見えますが、自分の中の相手しか見ていなかったために、その大切な相手を失う物語

 

 

 

燕太がカワウソに取り込まれそうになるとき、燕太が期待する一稀が現れて、「友達以上の関係になりたくないか」と誘惑しましたが、燕太はそれを拒絶しました。

 

友達以上の関係を望んでいないわけではないのでしょうが、それは「自分の望む」一稀であって、「本当の」一稀ではないと分かっているからでしょうね。

 

この、自分の期待する相手ではなくてありのままの相手を好きでいたいという燕太は見事なまでにレオとは対照的に描かれます

 

燕太は自分の欲望世界(欲望フィールド)の中で完結せずに、現実の世界でちゃんと「繋がろうとした」んです。

 

 

 

マブの欲望は「繋がれなくてもいいから(愛情を確認できなくてもいいから)ただ側にいたい」、

レオの欲望は「マブと繋がりたい(マブの愛情を確認したい)」「自分の望むマブでいて欲しい=支配欲」、

だったわけで、お互いのことを強く思っていながらすれ違っていたわけですね。

 

これは、主にレオがありのままのマブを受け入れられなかったからなんですが・・・。

 

やはり、主に描きたかったのは、トリオたち(子供)と対照的な存在としてのレオマブ、というかレオ(大人)。

 

 

 

辛くても思い通りにいかなくても、自分の欲望世界の中で完結せずに、ちゃんと人と繋がるという欲望(元々の原始的な欲望)を手放すな、それを諦めるな!!というメッセージ。

 

それができなかった大人たちから、これからを生きる子供たちへの希望。

 

 

 

単なるエンタメとしても秀逸ですし、今の日本という時代における力強いメッセージ性を感じる特別なアニメで、観たり考えたりするのがすんごい楽しかったです。

 

音楽とか、台詞とか、出てくるポーズや記号も含めての映像も、全部すごい好きでした。変な中毒性、再現したくなる感じを出すのが上手!!

 

そしてそして、自分が自分の欲望フィールドにこもって現実の大切なつながりを疎かにしていないか、自分の見たいようにしか世界を見ていないんじゃないかとHageしく自省させられるアニメでもありました。

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